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2009年 06月 20日
気流みたいなものを器にのせてみたいなぁ、、と試みたボウル(碗)です。 「気」は気持ちの気だったり気流の気だったりします。 見た方のその時の「気」のありようによって いろいろな見え方ができるといいなと思いました。 丹と月と燕(つばめ)、そして定番の細葉を一連の流れの中に描きました。 丹は、物事を動かす力であり生み出すものであり中心の重しのようなものである核。 太陽・・もその象徴の一つと言えるかも知れません。 月は人の欲だとかあまり好ましく無い感情を発動させますが、 かなしいかな物事を始めるきっかけとしては必要な感情だったりもします。 必要ながら流されるのでは無く最小限にとどめておきたい部分です。 だから満月ではなく三日月で。 そうして生まれた空間でいっちんの気流にただただのっかっている燕。 最後に、この器を使って下さる方が「時」をもって仕上げて下さいます。 時を経て、器の表情もまたそれなりの顔に変わっていく事でしょう。 -------------------------------------------------- 先日の駒ヶ根のクラフトフェアで 私の作品をとても丁寧に見て下さったある女性のお客さんから 『すごく綺麗ですね..それと何か宗教的なものも感じます。』と言われました。 そう言われてすぐ、するどい感性の方だなぁと思いました。 そしてその女性のおっしゃる意味が、 なんとなくですが、 私が表現したいものに繋がっているように感じ、嬉しく思ったのでした。 伝わるものなのだなぁ、と思えた瞬間でした。 「宗教」という言葉を使うと、その言葉の曖昧さから いろいろな意味ととらえる方が(特に日本人にとって宗教というのは なにか「臭いものに蓋」的な風潮が未だにありますし) いらっしゃると思うのですが、その辺りのことをどのように説明したらいいのか 私も下手な言葉を操って誤解を招くのもいやだなぁと、 きもちをあえて言葉にする事は、なんとなくですが避けていたのかも知れません。 ここ最近、先日もこのおぼえがきでもご紹介した玉三郎の本を読み進んで行く内に この私の抱いていた気持ちとかなりぴったりと来る氏の言葉を見つけました。 少し引用させてもらいますね。 ********************** 『これは僕の独断と偏見なんだけど、 ダ・ビンチやミケランジェロにとっての神は キリスト教じゃないと思う。 イエス・キリストというよりも自分の芸術の神だと思う。 たとえば、こう考えたらどうだろう。 キリスト教とか仏教というのは英語や日本語で書かれているけれど、 でも意味は日本語ですか 英語ですか。 何語でもないでしょう。 ただ、伝えるには英語や日本語が必要だったわけだけど、 伝えたいことは日本語や英語ではないはず。 だからたまたま彼らにはキリスト教だったんだけれども キリスト教じゃなくても十分だったと思うんです。 ただ世の中がキリスト教だったから、キリスト教の靴を履いていただけで、 彼らはもっと突き抜けていて、すぐに裸足になれる。 僕はそう思っています。』 和楽ムック 「板東玉三郎」より ********************** すごく良くわかる言葉だな、と思いました。 突き抜けてすぐに裸足になれる。 重要なのは、伝えたいのは、 そして目指しているのはそこなのです。 私が言うのもおこがましいかもしれませんが、 逆に言えば、辿る道として正道であればあるほど、 宗教的な表現・そう感じさせるものがでてくるのは、 どこの国でも同じなのかも知れません。 ここでいう宗教と言うのは、 玉三郎氏がいうように何々教というものではなく自分の芸術の神様、といったようなもの。 美術史の中で、宗教画から時代が新しくなると風俗画に変わってゆきますが、 たとえ宗教画というカテゴリの作品でなくとも、風俗画の中にも、 真の芸術のその内側に流れているものは、 やはり人の「祈り」だったのではないでしょうか。 そして突き詰めてゆけばその祈りの対象というのは、あえて言葉で表わせば、 自分の神様・自分に一番身近い神様・といったものなのではないでしょうか。 (こういった話しなるとおそらく八百万の神という日本人の感覚のほうが すんなりとくるかもしれません。。) 私の場合は、幼少の頃キリスト教の日曜学校に5年間ほど通っていた経験から スペイン滞在時にも違和感なくわりとすんなりと聖歌隊でキリスト教会の活動に 参加させてもらっていました。 そういった活動をしていると必ず日本の宗教や宗教観について聞かれました。 学生時代にある程度、日本美術を勉強していたところから 外来である仏教については少しは答えられても、 日本の土着の宗教、神道についてはほとんど何も説明できないという自分に気付きました。 日本にいたら考えもしなかった事です。 日本へ戻ってきて自国の根底の文化を心から知りたいと思うようになり 国学・神道を調べたり勉強したりして行く内、 自分の普段の生活や制作の中にこれらのつながりがあるのだ、 もはや無意識となる程に溶け込んでいるものなのだと知りました。 無意識となる程に溶け込んだもの、そして絶対的に必要なもの。 自分の制作が少なくともそういったものに沿っていなければ ものをつくる意味がないように思うようにもなりました。 これを「宗教」という言葉でよべるものかどうかは分かりません。 でも「祈り」はあると思っています。 まだまだ全く玉三郎さんの足元にも及ばないのですが、 それでも目指している方向は間違っていないのかも・・と、 上記の玉三郎さんの言葉から、 そして駒ヶ根のお客さんの言葉から、 今回感じる事ができたように思うのでした。
by majo_ceramica
| 2009-06-20 22:41
| 陶/作品
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