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2009年 03月 11日
宮沢賢治の「なめとこ山の熊」については、もう何年も前に、命と対峙する姿勢について狩人と熊の間にあるものが、闘牛士と牛の間にあるものと同じものを感じる(それを闘牛では「真実の瞬間」というのですが)、、という話を書いた事があるのですが、今回はまた別の角度から。そもそもなぜ猟師が熊を撃つのか、という事について。
まずは今井洋一さんという方の「宮沢賢治「なめとこ山の熊」小論」より。 http://www.geocities.jp/maomao_mac/nametoko.html この小論は、”高等学校の国語科授業における「なめとこ山の熊」の指導についての提言として書かれたものであり、『臨床教育研究 1998年度』(宮城教育大学大学院修士課程臨床教育研究グループ)に掲載された”ものだそうです。 以下その小論の冒頭部分をすこし長いですが転記させて頂きます。 ---------------------------------------------------- 小十郎は腕利きの猟師である。彼が「ぴったり落ち着いて樹をたてにして立ちながら熊の月の輪をめがけてズドンとやる」と、「森までががあっと叫んで」、熊は「どたっと倒れ赤黒い血をどくどく吐き鼻をくんくん鳴らして死んでしまう」のだ。しかし、小十郎は決して、山猫軒に迷い込んだ二人の若い紳士のように「早くタンタアーンと、やって見たいもんだなあ」とか「鹿の黄色な横っ腹なんぞに、二三発お見舞まうしたら、ずゐぶん痛快だらうねえ」とか思って鉄砲を手にしているわけではない。彼は、飽くまでも「仕方なしに」熊を撃っているのである。時には「何か栗かしだのみでも食ってゐてそれで死ぬならおれも死んでもいゝやうな気がするよ」と、「因果」な商売から足を洗いたいと考えるのだ。 では、なぜ小十郎は熊を撃つのだろうか。それが分かれば、「なめとこ山の熊」の授業はほぼ成功である。とは言っても、「小十郎は貧乏だから」などというのは答えになっていない。確かに、作品中に「ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ」と書かれてはいるが、それは小十郎が熊を殺すことの本質的な理由ではないのである。賢治の作品を教材として扱うとき、しばしばこういったところで躓いて、非常に浅い読みになっていることがあるように思う。 さて、小十郎がなぜ熊を撃つかということであるが、あんまり一ぺんに云ってしまって悪いけれども、それは需要があるからだ。需要があるからこそ、供給する者が必要なのである。ここでは、小十郎が貧しいということなど問題ではない。もし小十郎が畑を持っていれば、代わりに小太郎だか小次郎だかが熊を殺すだけのことだ。つまり、「なめとこ山の熊」は小十郎という一個人の〈業〉を描いた作品ではないのである。このことは、小十郎という供給者に対して需要者が誰かということを考えてみれば、もっとはっきりと分かるだろう。小十郎に熊を撃たせているのは誰だろうか。言うまでもなく、熊の皮と胆とを二円で買い叩く荒物屋の主人であり、その二円をあてにして家で待っている七人家内であり、荒物屋の客であり、そして、小十郎が熊を殺すことによって自らは手を汚さずに済んでいる多くの人々である。小十郎は、これら全ての人間の〈業〉を一身に背負わされる、十字架にかけられたキリストのような存在なのである。 ---------------------------------------------------- 『小十郎がなぜ熊を撃つかということであるが、あんまり一ぺんに云ってしまって悪いけれども、それは需要があるからだ。』 とかかれてますが、ここで現代の象牙の問題を思い浮かべました。 今も現実に小十郎のような狩人も存在するのだ、という事も。 象牙を捕る為に密猟があとを断たず野生のゾウの絶滅が危惧されています。 世界一の象牙消費国は日本だといいます。だから密猟者の商売相手は日本です。 最近では、日本で売られている象牙(印鑑・アクセサリーなどに使われている)は「調査用に捕獲したものを使っているので正当なルートから入って来ているものです」だとか「これは同じ象牙でもマンモスの牙から捕ったものです」といって販売されています。 しかし密猟者にとってはこれらの言葉はイコール”今でも象牙があれば日本ではよく売れる”というアピールに他ならない。以前に野生動物の保護活動をしている人のレクチャーを聞いた時、『密猟を根絶する為には、需要をまずなくすしかない』そんなお話しをしていました。 最近いよいよTVのニュースでもとりあげられるようになったタンタル金属が元での戦争の激化、マウンテンゴリラが殺され・・この負のサイクルにも日本が加担しているのだとしたら自分のこの今の日常についても考え見つめ直す必要があります。戦争に巻き込まれるのは嫌だけど、戦争を生み出す買い物には無神経。世界が狭くなったとは言え、情報が豊富になったとはいえ、遠い外国の話はいまだまだいまだに夢物語にしか思えないのでしょうか。そしてこの世にあって人間はいつの時代も結局変わらないのだとしたら、進化とか進歩といったものすらすっかり色褪せて見えます。
by majo_ceramica
| 2009-03-11 14:50
| 思うに・・
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